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激動の近代インドを生き抜いた詩人・タゴール
彼の創った歌は時を超え、ベンガルの人々と共に生き続ける   
非西欧圏で初めてノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴール。イギリス植民地時代のインドを生きたこの大詩人は、詩だけでなく歌も作っており、その数は二千曲以上にものぼります。「タゴール・ソング」と総称されるその歌々はベンガルの自然、祈り、愛、喜び、悲しみなどを主題とし、ベンガル人の単調であった生活を彩りました。そしてタゴール・ソングは100年以上の時を超えた今もなお、ベンガルの人々に深く愛されています。なぜベンガル人はタゴールの歌にこれほど心を惹かれるのでしょうか。歌が生きるインド、バングラデシュの地を旅しながらその魅力を掘り起こすドキュメンタリー。
国境や民族を越普遍性を持つ歌のちから
日本人の風土や郷愁にも通ずる、タゴール・ソングの魅力
監督は佐々木美佳。若干26歳、ドキュメンタリーの制作自体が今回初めての佐々木監督は、東京外国語大学在学中にベンガルの文化を知り、魅了されてゆく過程でタゴール・ソングと出会いました。アカデミックなアプローチとは全く異なるドキュメンタリーという手法によって、過去と現在、さまざまな人々を繋ぐ“歌”の真の姿に迫る重層的な作品に完成させました。
日本人にとってはるか遠いベンガル地方で生まれた歌なのにも関わらず、タゴール・ソングは懐かしくも新鮮に心に響きます。唱歌や演歌のようなクラシックでスタンダードな歌でありつつ、瀧廉太郎の抒情性、宮沢賢治の荘厳さ、中島みゆきの気高さ、ブルーハーツの激情を併せ持ったような、国境や民族を越えて、今を生きる全ての人々に伝わる普遍性を持つ歌々なのです。
非西欧圏で初めてノーベル文学賞を受賞/
マルチな才能を発揮したインドの大詩人
文:佐々木 美佳(本作監督)
ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)は、非ヨーロッパ語圏で初めてノーベル文学賞を受賞したインドを代表する詩人である。「インドの神秘詩人」というのがパブリック・イメージであるがそれはタゴールの一側面でしかない。表現者としては詩だけではなく、小説家、劇作家、音楽家、画家として優れた業績を残している。これだけでも日本において類を見ない人物であるが、タゴールは表現の世界に留まるだけではなく、教育者や社会活動家として常に実践を繰り返していた。タゴールの多岐にわたる業績や遺した言葉は、今でもベンガル人の誇りとして人々の記憶と思想に根付いている。
【タゴールの生涯】
名家・タゴール一族の末子として誕生/8歳で詩に目覚める
タゴールは1861年5月7日にコルカタで生まれた。イギリスとの商業の中心地として経済的に栄えていたコルカタで、タゴール一族はその波に乗り財を成した。イギリスとの通商は経済的利益だけでなく、西洋思想も同時にもたらした。当時のタゴール家はその空気に触れた先進的な一族だったので、その教育方針も類を見ないものだった。7人の兄と6人の姉に囲まれた末子のタゴールは才能豊かな兄弟の手ほどきを受けながら、インドの古典から西洋の知識まで、ありとあらゆる教養を吸収していった。タゴールの詩的才能が発露するのは大変早く買った。8歳の頃、「雨はぱらぱら、木の葉はざわざわ」というベンガル語のありふれた語呂合わせから詩の天啓を受け、そこから詩を書くことにタゴールは夢中になっていった。
挫折を経験した青年期/ベンガルの風土と調和する詩作/実践の繰り返しと学校設立
詩人として早々に目を出したタゴールだったが、しかし当時は文人として生きていくことは職業たりえなかったので家族は心配し、タゴールを弁護士にさせるためイギリスに送りだす。しかし型にはまった教育に元々なじむことのできないタゴールはイギリス留学に挫折し、学位も名声も持たずに帰国。夢破れた青年に対して父は結婚とタゴール家の領地であるシライドホの領地管理の仕事をタゴールにあてがった。1890年、タゴールが30歳の頃である。人間として初めて責任というものを背負わされたタゴールだが、そこで初めて都市コルカタ以外の原風景的な自然が広がるベンガルの土地に根をおろすことで、様々な出会いを経験するのである。農村改革に奔走する中で、ベンガルの宗教詩人バウルと出会う。ベンガルの大地で脈々と口承で伝えられてきもう一つの伝統は、彼の創作に多大な影響を与えた。さらに5人の子どもの父となったタゴールは、自らの学校教育の苦い思い出を子どもに味わわせまいと、父の瞑想の土地であった荒野シャンティニケトンに学校を開校する。
愛する者たちの死/政治への接近と離縁/高まる世界的評価
社会、家庭、創作、そのどれもにおいて一見順風満帆のように進んでいくかのように思われたタゴールの人生ではあるが、1902年に妻ムリナリニの死を経験し、さらに立て続けに愛娘や父の死をもが彼の人生に降りかかる。その死の影を振り払うかのようにタゴールは1905年のベンガル分割反対運動の中心人物として政治活動を行うが、それも内部抗争を目の当たりにし前線から遠ざかるのであった。この頃のタゴールの心の拠り所は、自然豊かなシャンティニケトンやシライドホであった。人生の悲しみをこの時期に味わい尽くしたタゴールであったが、一方で究極の悲しみを貫き抜けたからこそ、宗教的な洞察もこの時期に最も深くなったと言われている。
1912年のシライドホでの療養中にタゴールはベンガル語で『ギタンジョリ』を執筆し、これをもとにタゴール自身が英訳を手掛けた『ギーターンジャリ』が世界的に注目され、1913年にノーベル文学賞を受賞する。ノーベル文学賞を契機に日本でタゴール紹介が始まり、来日の噂とともに日本にタゴール・ブームが訪れ、1916年にタゴール来日が実現すると熱狂的な歓迎ムードが当時の日本に拡がった。日本とタゴールの関係性は詳細に語られてしかるべきだが、簡潔にまとめると、西洋文明をいち早く受容した日本にとってタゴールの唱えた「文明批判」は、タゴール・ブームに冷や水をかけるものでもあった。タゴールへの世間的な熱狂はここで冷めることとなったが、タゴール本来の欲求であった日本でひっそりと過ごすことが来日後半の時期に可能となった。旧友の岡倉天心の五浦の家を訪れたり、軽井沢で日本女子大学の学生と語らいあったりなど、インドと日本の相互的な文化的交流が進むこととなった。
タゴールはその後も公人として世界各国を訪問した。しかしタゴールの人生の全てはベンガルの地にある。ノーベル文学賞による賞金や世界的な名声は、シャンティニケトンの学園運営に活かされた。教育者としてシャンティニケトンに根を張ることで、その季節の巡りと学園生活の関わり合いから、途絶えることなく詩、歌、戯曲、小説など、様々な創作を続けていく。タゴールの創作意欲は1941年8月7日の死の直前まで途切れることなく続き、この世界に燦然と輝く文化遺産を残して旅立ったのであった。
【タゴール・ソング】
ヨーロッパの音楽や吟遊詩人「バウル」等、様々な音楽的ルーツ
一人の作り手の射程をはるかに越えた多様で普遍的なテーマを歌う
本作品は「タゴール・ソング」(ベンガル語発音ではロビンドロ・ションギト)が題材である。「タゴール・ソング」とはタゴールが生涯にわたって2000曲以上書き上げた歌のことを指す言葉である。インド、バングラデシュの国歌はタゴール・ソングからそのまま採択された。タゴールの類まれなる音楽的才能はどのように育まれたのであろうか。
 タゴールの生涯でも少し触れたように、タゴール家が教養のある先進的な新興中産階級であったことはタゴールの音楽的土壌を育てるのに大きく貢献している。タゴールは幼少期からインド古典音楽を音楽家から直々に学んでいた。西洋音楽にも触れ、当時は高級品であったピアノや作曲の手ほどきを兄から受けていた。インドの伝統音楽と西洋のクラシックがベースにあったタゴールの音楽的土壌に決定的な影響を与えるのは、シライドホの土地で出会ったバウルなどのベンガルの大地が1000年以上の歴史をかけて紡いできた口承文学の世界である。宗教詩人バウルはベンガル各地に散らばって存在し、それぞれの地域の民族歌謡の旋律を取り入れて歌作りをしているから、結果的にタゴールはベンガルの民謡のあらゆるエッセンスをここで取り入れることとなる。今でも人気がある曲と言えば、本作品にも何度も登場している「一人で進め」(Ekla Chalo Re)であるが、この耳なじみの良い旋律は実はバウルの歌のメロディーが元となっているのである。  1人のシンガーソングライターが手掛ける「テーマ」の射程は、その歌手の音楽人生において、ある意味限定されているという場合の方が多いのではないだろうか。しかしシンガーソングライターとしてタゴールの業績を見返してみた場合、その「テーマ」は多岐にわたる。タゴールが自らの手で編纂した『ギトビタン』と呼ばれる歌詞集の章をみるだけでも、「祈り」「自らのくに」「愛」「自然」「その他」「催し」という風に、そのテーマが個人の内面に限定されず、その射程は多岐に渡っている。時には分断されそうなベンガルのためにプロテストソングを一気に創作し、時には自らの悲しみの先の光を見つめる霊性の高い祈りの歌を紡いだタゴールの音楽人生は、まさに一生をかけてタゴール・ソングに人生を賭ける歌い手を生んできた。優れた歌い手の声で歌われた幸運なタゴール・ソングは、レコード、CD、ラジオ、TV、ありとあらゆる形でもって人々の心に詩を運んでいった。タゴール・ソングはベンガルの人々の生活と共にあり続けるだろうし、今日もどこかでそれらは口ずさまれているはずだ。
タゴールが生きた「ベンガル」は、言語は同じだが現在はインドとバングラデシュに分かれている。『タゴール・ソングス』では、両国を行き来し、インドではコルカタ、バングラデシュではダッカを主な拠点としながら撮影が進められた。
ベンガル地方
現在のインド・西ベンガル州からバングラデシュにまたがる地域で、ベンガル語が話されている地域。世界各地に住むベンガル人を含めると、ベンガル語話者人口は3億人を超える。1911年にデリーがインド帝国の首都とされるまで、コルカタはイギリスのインド統治の中心だった。ベンガルは東側がイスラーム教徒、西側がヒンドゥー教徒でほぼ半分ずつ居住していたが、インドの民族運動を警戒したイギリスが1905年にベンガル分割令を出して分割統治をはかったことから反英感情が強まりインド独立運動が高揚した。1947年にインドは独立したが、宗教上の理由からベンガル東側は東パキスタンとして分離独立。1971年、東パキスタンはさらに西パキスタンと分離してバングラデシュとなった。
インド
オノンナ・ボッタチャルジー
大学生。コルカタ市内の大学に通う今どきの女性で、伝統的な家族観や将来について悩んでいる真っ最中。見た目や交友関係は派手だが、タゴールの詩や歌をこよなく愛しており、貪欲な好奇心と探求心でかつてタゴールが何度も訪れた日本に赴くことになる。
「お父さんはタゴールのことを忘れたの? タゴールは自分の意志で人生を突き進んでいったのよ。私だってもしかしたら、タゴールみたいになれるかも」
オミテーシュ・ショルカール
タゴール・ソングの教師。タゴール・ソングに人生を賭け、本も執筆している。若い頃は革命を志し、以前は妻子がいたが何らかの理由で現在は一人寂しく暮らしている。たくさんいる教え子の中でプリタの才能にほれ込み、自身の全てを引き継いでもらいたいと考えている。
「私は人生を賭けてタゴール・ソングを手に入れたと思う。私には生徒がたくさんいるが、誰も本当の弟子と思えなかった。私の人生の最後に彼女と出会った。私の持てる全てを今、託しているところなんだ」
クナル・ビッシャシュ
インディーレーベル「コルカタビデオズ」のプロデューサー。コルカタビデオズでは様々な音楽をやっているが、その中でタゴール・ソングに力を入れている。もともとはハードロックバンドをやっていたが、タゴール・ソングの魅力に目覚め現在に至る。
「タゴールの言葉を理解するのは確かに難しい。誰も彼の詩の全てを理解することはできないだろう。だからこそ私たちには責任がある」
スシル・クマール・チャタルジー
コルカタに住む、地元でも有名な骨董コレクターで、テレビや雑誌での紹介歴多数。映写機やレコードプレイヤーや様々な近代の歴史遺物を集めており、本編でも紹介したタゴールの肉声レコードも所有していた。
「タゴールの理想は“自然”に基づいている。この自然がコンクリートだけの世界になれば創造もできなくなる。彼は心の底からその悲劇を実感していた」
ラカン・ダース・バウル
ユネスコ無形文化遺産である、ベンガルの吟遊詩人「バウル」の一人。バウルとしての実力は高く、国内だけではなく海外でも公演を展開しており、世界各国で演奏活動をしている。
プリタ・チャタルジー
オミテーシュの一番弟子。オミテーシュからは「タゴール・ソングを歌うための声の持ち主だ」と言われている。本編では歌う場面や、詩の朗読をする以外は一言も発しないミステリアスな存在。英文学の研究者であり、大学講師をしながら歌い手としても活動している。


バングラデシュ
ナイーム・イスラム・ノヨン
高校生。幼いころに両親を亡くしてから、ダッカ市内でストリート・チルドレンになり行き場をなくしていた時、エクマットラに救われる。エクマットラ在籍中に習ったタゴール・ソングに傾倒し、自身でも歌うようになった。現在は高校を卒業し大学に通っている。
「タゴールの物語や詩から人生をどう生きればよいのかを学んだ。生きていても意味がないと思う時もあった。でも、僕みたいに苦しんでいる子たちがたくさんいると気が付いた。だから歌を通して伝えたいんだ」
ハルン・アル・ラシッド
レコードコレクター。クラシックやワールドミュージックだけでなく、トラディショナルな音楽、特にタゴール・ソングのレコードをたくさん所有している。普段は新聞記者をしており、家族想いの側面も。
「タゴール・ソングは心に訴えかける。歌詞がどれもすばらしく、そしてメロディーが心をかきたてるんだ」
レズワナ・チョウドリ・ボンナ
バングラデシュを代表するタゴール・ソングの歌手で、発表しているレコードは多数、現在も積極的に演奏活動を展開している。ダッカ大学の教授でもあり、自ら子どもたちに音楽を教える学校シュレルダラを作っている。多忙な中、時間の合間を縫って本作の撮影に協力してくれた。
「タゴール・ソングの中には自分を信じることを歌ったものがある。全ての子どもたちに歌い、そして信じなさいと」
 
ニザーム・ラビ
バングラデシュのヒップホップシーンをけん引するラッパー。フリースタイルのスキルが抜群に高い。ストリートだけではなく、楽曲の発表やラジオ、イベント等幅広く活動している。
「俺たちはタゴールの「ひとりで進め」にすごく影響を受けた。俺たちは集まってラップで闘う。それが俺たちのできることさ」


日本
 
鈴木タリタ
撮影当時は東京外国語大学に通っていた大学生で、ベンガル語専攻。父親がバングラデシュ人、母親が日本人。大学卒業後は、バングラデシュに関わる仕事をしている。
「私はベンガル語を全く知らなかった。だから大学からベンガル語やバングラデシュについて勉強を始めた。詩や、歌や、文学、それらがとてもすばらしいものだと日本にアピールしたいの」
人とつながってゆく歌「タゴール・ソング」
映画を通して、未知の文化とつながる喜びを体感して欲しい
インドの偉人としての大詩人・タゴールのイメージ
民族全体で共有できる歌の魅力とは一体どういうものなのか?
Q:今回が初めての映画制作とのことですが、そもそも「タゴール・ソング」に興味を持った理由は何でしょうか?
タゴールの歌が百年以上時を超えた今でも、ベンガルの人々の心に息づいているその様子が素直に羨ましいと思ったのがきっかけです。実家が浄土真宗で、法事やお墓参りで仏教が身近にある環境だったんですが、その仏教がインドから伝わってきたことを知り、慣れ親しんだ世界と遠い国の文化のつながりを知りたくて、東京外国語大学に入りヒンディー語を学び始めました。そこからベンガル文学のゼミに所属して、ベンガル語で書かれた文学で何を研究しようか色々迷っている最中に、タゴール・ソングと出会ったんです。タゴールという人はインド史においてガンディーに匹敵するほどの偉人ですし、そのヴィジュアルからしても、なんだか遠い世界の人のように思ったんですが、ゼミの教授から「実はタゴールは歌を二千曲以上書いていて、今でもその歌を教える先生や歌い手がいて、子供たちが習い事としてタゴール・ソングを学んでいるんだよ」というお話を伺い、偉人としてのタゴール像とベンガル人にとってのタゴール像が全く違うことに驚きました。
日本ではそういった、世代を越えて民族全体で共有していくような歌の文化は見当たらないですよね。それほどベンガル人が大好きなタゴール・ソング、それなら一度聴いてみようと思いYoutubeで歌を実際に聴いてはみたのですが、正直メロディーだけ聴いてもその良さがピンと来なかったんです。最初はどうもその魅力が感じられないということにもどかしさがあり、そのギャップをなんとかして埋めてみたいと思い、タゴール・ソングを卒論の研究テーマに設定しました。
Q:興味を持ったところから、映画制作を決意するところまでの飛躍のポイントはどういったものでしたか?
現地の友人たちとの出会いのおかげでタゴール・ソングの魅力や良さに気がつきはじめ、その世界を知らない人に伝えてみたいと思ったのがきっかけです。卒論で研究すると決めた当初、タゴール・ソングとベンガル人アイデンティティの関係性をテーマに設定し、翻訳を進める過程で、実際にバングラデシュのダッカ大学の教授宅に短期間ですが滞在し、そこで実際にタゴール・ソングがどのように歌われているのかを体験しました。歌の意味をベンガルの友人に教えてもらったり、リクシャに乗りながら一緒に歌を口ずさんだりするなかで、歌とその人と過ごした時間が自分のなかに定着していく感覚がありました。ただ一緒に歌を教えてもらっただけなのに、歌の一つ一つが自分の人生と繋がって、タゴールの言葉が自分のものになっていくというような感じです。
テキストよりも、音と映像で物語る「映画」で伝えたい
タゴール・ソングをきっかけに出会っていったインド・バングラデシュの人々
バングラデシュでタゴール・ソングを体感した経験から、自分にとっての興味がタゴール・ソングそのものというよりも、タゴール・ソングとベンガル人との関係性の在り方をもっと近づいてみたいという欲求が芽生えてきました。ただ卒論という文章での表現では限界があるのではと思っていて、音と映像と物語で伝えられる映画という形が一番その魅力を伝えられるだろう思って、映画制作を決意しました。
Q:実際の撮影について、どのような狙いで撮影を進めていったのでしょうか?本作にはたくさんの人が登場しますがどのように出会っていったのでしょうか?
ベンガルの人々と歌の在り方を描きたかったので、まずは出会う方々に、タゴール・ソングについてどう思うか、何故好きなのかという問いを投げかけるところから始めました。路上でチャイ片手に知らない人とのお喋りに夢中になる文化があるお陰か、ベンガルの方々は知らない人に対する障壁がもの凄く低くて、それが撮影を進める上でとても助かりました。たくさんの恵まれた出会いがありましたが、特に魅力的だなと感じた方々に対して、個別に取材を積み重ねるというスタイルでそれぞれの登場人物の輪郭を追って行きました。登場する人物との出会いもとてもユニークでした。大学の先生のご縁で繋いでいただいた出会いもあれば、モダンなタゴール・ソングを歌うKolkata Videos(コルカタビデオズ)やラッパーの方々はYoutubeで音源を検索して直接ダイレクトメッセージを送り、会うことができました。
歌を介して、人生の岐路に関わらせてもらった主要な登場人物たち
今を生きる一人一人の人生の物語と繋がってゆくタゴール・ソング
そうやって偶発的にいろいろな人と出会っていったのですが、一番思い出深いのは、タゴール生家の突然の休館日、途方に暮れていた私たちと同じような状況でその場にいたオノンナさんとの出会いでしょうか。今回はインドとバングラデシュへ4回に渡って撮影に行きましたが、主要な登場人物の方々とは毎回お会いして、インタビューだけではなく、その生活と歌との関わりの様子を撮影することによって、歌の在り方を重層的に描くことを試みました。
Q:主要人物3名は特に印象的です。それぞれの方をフューチャーした理由を教えて下さい。
タゴールが生涯をかけて作り上げてきたタゴール・ソングを表現するためには、様々な立場の人のお話を聴いて、その人の人生をお借りしながらその人の個人史とタゴール・ソングとのつながりを捉えたいと思っていました。抽象的とも捉えられかねないタゴール・ソングですが、唯一無二であるだれかの人生の物語がそこにあることで、歌が私たちにとってより近しいものに感じることができるからです。ナイーム君のような困難な状況にある若者の生を支え、歌が人生を乗り越えようとする力を与えてくれる場合もあります。オノンナさんのようにぼんやりとした不安にそっと歌が寄り添ってくれることもあるでしょう。タゴール・ソングを人生をかけて学び手に入れたオミテーシュさんは、歌を残すために弟子に歌を手渡していきます。
初めてのドキュメンタリー制作 ― 他者の人生を借りて映画を作るのは恐ろしいこと
タゴール・ソングを介しての他者との出会いを、必然のものに落とし込んでいく実感
ドキュメンタリー映画制作そのものが今回初めてで、取材相手の人生に踏み込むことで物語を構築するドキュメンタリー映画は恐ろしいことであるとも思いました。最初、監督として人の人生にズケズケ踏み込むのが怖いと感じていましたが、その乗り越えなければいけない山を、既に映画制作の経験があるスタッフの方々の励ましがあったからこそ勇気を持って取材を継続させることができました。そして何より各登場人物の姿を借りているからこそには、映画を完成させようという思いで制作を進めました。映画を見てくださる方はあらゆる年代・立場の方がいらっしゃると思いますが、映画に登場する誰かのタゴール・ソングに心が動いてくれたらとても嬉しいです。
Q:撮影だけでなく編集の過程も含めて「タゴール・ソング」についてどのように捉えていったのでしょうか?
二千曲以上も存在する「タゴール・ソング」は、出会うべき瞬間が人それぞれあるんだなということを強く思いました。初めて出会う歌でも、撮影後の編集時に、歌とインタビューを翻訳しながら振り返ることで、歌そのものの意味を自分自身が理解していく過程でもありました。しかし、それでもまだ、自分とはやはり遠いと思える歌もあります。ただ、そういう歌でもこれから時間を重ねていくうえで、自分の人生に様々なことがある中で、ふと腑に落ちる瞬間があるんじゃないかと思っています。そういう意味で、自分の人生とタゴール・ソングがこれからもいっしょにあってほしいと思っています。
まだ見ぬ世界、異なる文化に触れる面白さをより日常的に     
人と繋がる歌「タゴール・ソング」     映画を通してまた繋がって欲しい
タゴールの言葉に「Shurerdhara」(シュレルダラ)という言葉があって、直訳すると“メロディーの流れ”という意味ですが、これは歌と人のつながりを表している言葉なのかなと私は解釈しています。その流れはゆるくなったり、激しくなったりもしますが、一度繋がってしまえば、途切れることはないはず。人が生きてから死ぬまで、何かしら自分の感情に触れあうタゴール・ソングがあるということを思うと、そういう瞬間に出会得ることを待ち望んでいます。そういう意味で、タゴール・ソングはまさに、一生を通じて楽しむことができるエンターテインメントなのだと思います。タゴール・ソングが生まれて100年以上経った今でも歌い継がれているということを考えると、タゴールが生み出したその創作の素晴らしさ、それを守り継いでいったベンガル人の意志の意味というのを感じずにはいられません。タゴール・ソングを歌い継いで来た方々に敬意を込めて、映画を制作しました。
Q:最後に、完成した作品をどのように観てもらいたいですか?
 まだあまり知られてはいない「タゴール・ソング」に光を当てたこの映画が、日常の中で出会う「違い」や「多様な価値観」の存在に目を向けるきっかけになればと思っています。ベンガル人の存在は日本において日に日に身近な隣人となりつつあります。みなさんが街を歩いている中で耳にする外国語は、もしかしたらベンガル語かもしれません。ベンガル人だけではなく、様々なバックグラウンドを持つ人々が隣り合って暮らしている日本で、多様な価値観がこの世には無数に存在しているということ、それを当たり前のように受け入れながら、違いだらけの他者たちと共に生きていく態度は今必要とされているのではないのでしょうか。まだ見ぬ世界、違う文化の面白さに改めて気がつくきっかけとして、この映画が存在して欲しいなと思っています。タゴールの言葉と映画を見ていただいたお客さんの人生が一続きになって、新たな文化の繋がりがこの土地で生まれるきっかけになってくれれば幸いです。
監督:佐々木 美佳(ささき みか)
1993年、福井県出身。東京外国語大学ヒンディー語専攻卒。在学中にベンガル語を学び、タゴールの歌に魅せられてベンガル文学を専攻していたが、卒論とは別に在学中に映像制作を学び始め、本作の制作をスタート。本作が初の監督作品。
スタッフ プロフィール
プロデューサー・構成:大澤 一生(おおさわ かずお)
1975年、東京都出身。日本映画学校(現・日本映画大学)でドキュメンタリーの制作を学び、卒業後は数々のインディペンデント・ドキュメンタリー映画の製作に携わる。主なプロデュース作品に『バックドロップ・クルディスタン』(07/野本大監督)、『アヒルの子』(10/小野さやか監督)、『隣る人』(12/刀川和也監督)、『ドキュメンタリー映画100万回生きたねこ』(12/小谷忠典監督)、『フリーダ・カーロの遺品 ― 石内都、織るように』(15/小谷忠典監督)、『さとにきたらええやん』(16/重江良樹監督)。ほか製作、配給、スタッフでの参加作品多数。近年では海外作品の配給も手掛けており、主な配給作品に『きらめく拍手の音』(17/韓国/イギル・ボラ監督)、『あまねき旋律』(18/インド/アヌシュカ・ミーナークシ、イーシュワル・シュリクマール監督)、『少女は夜明けに夢をみる』(19/イラン/メヘルダード・オスコウイ監督)がある。
撮影:林 賢二(はやし けんじ)
1986年、東京都出身。都内の高専を卒業後、エレベーターのMEをしながら夜間は映画の専門学校に通い、休日は撮影助手をしてキャリアを積む。その後、日本映画大学でドキュメンタリーを学び、卒業後はテレビの技術会社を経て、現在はフリーのカメラマンとして活動。本作が劇場公開映画の初参加作品。
録音・編集:辻井 潔(つじい きよし)
1979年、東京都出身。日本映画学校(現・日本映画大学)卒業後、安岡卓治に師事。編集助手を経た後、編集者として様々な作品に携わり続ける。主な編集作品に、『花と兵隊』(09/松林要樹監督)、『ただいま それぞれの居場所』(10/大宮浩一監督)、『ミツバチの羽音と地球の回転』(11/鎌仲ひとみ監督)、『ぼくたちは見た − ガザ・サムニ家の子どもたち− 』(11/古居みずえ監督)、『隣る人』(12/刀川和也監督)、『ドコニモイケナイ』(12/島田隆一監督)、『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』(12/小谷忠典監督)、『イラク チグリスに浮かぶ平和』(14/綿井健陽監督)、『赤浜ロックンロール』(14/小西晴子監督)、『さとにきたらええやん』(15/重江良樹監督)、『夜間もやってる保育園』(17/大宮浩一監督)、『インディペンデントリビング』(20/田中悠輝監督)ほか。